◆「春帆楼の夜」
生家をはし袋に記した絹代
「わたしが生まれ育った家はね」
田中絹代さんはそう言うと、私のボールペンを手に取るや、テーブルにあったはし袋に、地図らしきものを書き始めた。「日和山がこことしますね、ここからこう下って…」。
1973(昭和48)年11月中旬。東洋一の吊り橋として脚光を浴びた関門橋開通の直後、山口新聞は当時の参議院議員江藤智、女優の木暮実千代に絹代を加えた3氏の座談会を、下関の春帆楼で開いた。関門橋開通で沸き返る下関を、久しぶりに下関へ帰った3人に語り合ってもらおうという企画だった。
新聞記者3年目。記事にまとめろとの社命で筆記者を兼ねて同席した。一通りの話が終わって懇談の時、隣にいた絹代さんは、江藤さんや木暮さんの話に加わらず、もっぱら駆け出し記者相手に下関のことをあれこれ聞いてきた。
はし袋への自宅周辺図のメモ書きは、その流れのなかでのことだった。後年、絹代顕彰活動のなかで、郷土史に造詣の深い下関芸術文化懇話会の冨田義弘副会長や下関市文化協会の野村忠司会長らが「早くに解体された絹代の生家がどこにあったか、実ははっきりしない。恐らくは…」と何度も腕組みして想像をめぐらせる横で、冷や汗が流れっ放しだったことを告白しなければならない。
まぎれもなく、絹代さんはあの時、生まれ育った家の地図を書いた。途中、何度も、「ここ、分かりますね」と目印の建物を確認された。しかし、うかつにも絹代の生家は下関では皆が知っていると思い込んでいて、話は上の空で聞いていた。はし袋はポケットに入れたまでは覚えているが、記憶はそこまで。話の内容も、「日和山」と話されたことくらいしか思い出せない。
~ 絹代より木暮 ~
戦後の団塊世代、26歳の駆け出し記者にとって、当時の女優田中絹代は「子供のころに見た『楢山節考』のおばあさん」の印象しかなかった。むしろ、いかにも女優然として華やかな雰囲気を振りまく木暮実千代さんのそばに座りたいと思っていたことも白状する。
あでやかな和服姿の大柄な木暮さんに対し、ショートカットの頭にベレー帽の小柄な絹代さんは、いかにも地味だった。絹代さんとのやりとりには身が入っていなかったのである。
田中絹代の略年譜を見れば、73年当時の女優絹代に若い記者が無関心だったのも、納得いただけるかもしれない。
1925(大正14)年から250本を超す映画に出演、数え切れない受賞歴といえども、65年から7年間は病身の兄の看護に専念。69年にNHK大河ドラマ「樅の木は残った」に出演したくらいで、映画から完全に遠のいた時期だった。
春帆楼の夜の絹代さんは64歳目前。翌74年からの晩年、絹代さんは映画女優人生のすべてを賭けてスクリーンに復活する。「三婆」の後、「サンダカン八番娼館望郷」で、孤独な生涯が刻まれた老女を演じ切り、ベルリン国際映画祭女優演技賞を受賞。全盛期に受賞したカンヌ、ベネチアを含め、世界3大映画祭のすべてを制するという三冠の偉業を達成したのだ。
~ 追悼映画祭 ~
下関での座談会から3年4カ月後の77年3月21日に絹代は永眠するが、「これほどの映画女優は二度と出ない」などの活字が躍る絹代逝去の報道で、いかに偉大な女優だったのかを初めて思い知らされ、あの〈春帆楼の夜〉になぜもっと真しな取材ができなかったのか…悔いに身を震わせた。
下関出身の大女優の死。しかし下関には何の動きもなかった。当時親しくしていた朝日新聞のY記者と「下関はおかしいよね」などと語りながら「絹代をしのぶ映画祭」をやろうという話になった。当時の下関市文化協会会長だった藤田正氏らに相談し、下関青年会議所や下関大丸、山口放送など多くの団体・企業の協力で実行委員会を組織し、「楢山節考」「愛染かつら総集編」を上映した。会場の市民会館大ホール1500席はぎっしり埋まった。
それから数年後、下関の先人顕彰活動グループ「絹の道の会」が発足。活動の柱の一つとして絹代顕彰が本格的に始まり、顕彰の拠点になる絹代記念館構想も持ち上がった。
幾多の挫折を経ながら、下関市も絹代生誕100年の今年度事業として旧第一別館を改築し、来年2月13日に「田中絹代ぶんか館」オープンの運びになった。いま絹代顕彰はNPО田中絹代メモリアル協会(藤城洋一会長)に引き継がれ、全国各地から多くの資料や情報も寄せられている。
微力ながら、今も個人的にお手伝いさせていただいている身にとって、絹代顕彰の原点はただ一つ、あの〈春帆楼の夜〉の慙愧の念である。
~ 気配りの人 ~
座談会の途中、内容をメモするためペンを走らせる記者の手を、絹代さんは、節の大きさが目立つ手でドンと抑えたことがある。
座談会の席で出されたお茶を、横にいた絹代さんが「お茶が入りましたよ」と声をかけてくださったが、手をつけず、メモ取りに没頭。しばらくして、絹代さんは仲居さんにお茶を入れ直すよう指示。
「せっかく入れていただいたのだから、温かいうちにお飲みなさい」「テープが回っているし、少しくらい休んだっていいわよ」と言う絹代さんの手で、ペンを持つ記者の手は動きを止められた。
絹代顕彰を重ねるうちに「あまりにも周囲に気を使いすぎる人だった」(木下恵介監督)など、絹代さんの人柄を知るにつけ、あの対応が思い出される。
生活力を感じさせる力強く大きな鼻や耳の造作がやけに印象的だったことと共に、夜景に浮かび上がる関門橋のイルミネーションを背に、どこか寂しげな絹代さんの表情が、今も焼きついて離れない。
昭和を代表する映画女優田中絹代(1909-77年)は11月29日で生誕100年。絹代と下関のかかわりを追う。
山口新聞特別編集委員・佐々木正一
2009.11.25
|